表参道ガイド連載小説『イデアの恋人』

※小説『イデアの恋人』は、本誌『表参道ガイド』に第一回から第十四回(最終回)まで連載されました。本作は第一回をWEB版として掲載するものです。ⒸKaori Kiyono

『イデアの恋人』 清野かほり

Shiori’s Room-1

「愛してる」という言葉だけでは、とても足りない。この気持ちを表現できる言葉を、探し出すことなんかできない。そんなふうに感じたことが、キミにはないかな?

この物語は、私がそんな思いを抱くまでの、呆れるほどに長い恋物語。

私は、この文章を読んでくれるキミを友達だと思って話しかけるよ。適当に相づちを打ってくれるだけでいいし、いいかげんに聞き流してくれてもいい。ただ、キミと私はたぶん同じような気持ちをもって過去に、あるいは現在に、そして未来に生きているはず。

表参道に住んで、ちょうど1年になる。正確にいうと住所は神宮前だけれど、人に住んでる場所を訊かれたときには「表参道」と答えるようにしてる。だって、そのほうが、もっとオシャレな感じがするからね。

去年の春、この賑やかで華やかな街に引っ越して来た。部屋は清潔感のあるワンルーム。置いてあるものといえば、セミダブルのベッドと、アンティークな木のテーブル、二人掛けで座り心地のいいソファー、全身を映せるロングミラー、そして背の高い間接照明だけ。

私はここで、一匹の猫と暮らしてる。彼女の名前は「ティア」。シンガプーラという種類の、世界でいちばん小さい、美しい猫。

ソファーに座っている私のひざに、ティアが飛び乗って、ちょこんと座った。シルクみたいな彼女の背中や頭をゆっくりと撫でる。ティアは気持ちよさそうに、アイラインのくっきり入った、アーモンド型の大きな瞳を細める。

テーブルに置いたスマホに視線をやった。心のなかで、私は小さな賭をする。今夜は彼から電話がくるか、こないか。電話がきたら、冷凍庫の中のアイスクリームを食べずにガマンする。もちろん私は、電話を待っている。

窓の外は、水彩絵の具の藍いろをコップに垂らしたみたいな、都会の夕闇が広がってる。その色を背景に、ティアの引き締まった体がシルエットになる。

「ねぇ、ティア、電話くると思う?」

そう言った直後、コールした。ティアが驚いたように三角の耳をスマホに向ける。画面を見て、思わず微笑んだ。

「彼だよ、ティア」

手に取り、3コールで通話をタップした。「はい」と少し可愛らしい声を出す。

「あ、詩織?」

「蒼くん」

彼の本名は、工藤蒼一郎という。

「……今日はさ、どうも乗らないんだ」

そしてペンネームは、工藤蒼という。言い方は悪いけど、私の彼は〈売れない作家〉だ。

「執筆が進まないの?」

「そうなんだ。担当編集者が『途中でいいから読ませろって』言うから、原稿を送ったんだけど、ダメ出しされちゃってさ……」

元気のない声。いつもは低くて甘くてセクシーな声だけど、筆が乗らないときは、なんだか母性本能をくすぐる声だ。傷ついた少年みたい。

「私にできること、ある?」

彼がふっと、笑ったのが分かった。

「詩織に癒してもらいたいな」

ふたつ年上だけれど、彼は甘えん坊なのだ。私は彼の耳に囁くように言う。

「来る? 今から」

今度は大きく、彼は笑った。

「お土産にアイスクリーム、買って行くよ」

つい、笑ってしまった。私は賭に勝ったうえに、勝利品まで手にするのだ。しかも彼は、私がアイスクリームが大好きなことを、ちゃんと知ってくれている。

「じゃあ、待ってる。急いで来てね、夜は短いから」

「了解」

通話を切ると、ティアがひざから飛び降りて、うーんと手足を伸ばした。ニャンコのストレッチだ。淡いセピア色の艶やかな被毛と、しなやかなボディ。目が離せないくらいカワイイ、そのポーズ。

「蒼ちゃん、来るよ。ティア、よかったね」

よかった、嬉しいと思ってるのは自分。なのに私はこうして、恥ずかしさをごまかす。

自分の姿を鏡に映してみる。そのたびに私は、本当に自分が〈工藤蒼〉という作家の彼女として相応しいのか、考えてしまう。

決して美人じゃない。カワイイというタイプでもない。スタイルがいいわけでもない。付き合って半年が経つけれど、なぜ彼が私を彼女にしてくれたのか、本当のところ、よく分からなかった。

本気じゃないのかも。遊ばれてるだけなのかも。

でも、それでもいいんだと何度、自分を宥めただろう。少なくとも彼はいま私の彼氏で、私は彼の彼女だ。本気の恋じゃなくても、たとえ遊びでも、彼は私を選んでくれたんだ。それだけで満足だって。

インターホンが鳴ってドアを開けると、彼が立っていた。

洗いざらしの白いコットンシャツ。穿き古したデニム。飾り気のないスニーカー。いつも同じような格好をしてる。高そうな服やファッションアイテムは、ひとつも持っていないみたい。いつヘアサロンに行ったのか分からない、ラフな髪も相変わらず。でも、それが、私の好きなところでもある。

「はい、アイスクリーム」

目が合うと、にっこり彼は笑った。黒目がちの丸い目と、ちょっと厚い唇がセクシーだ。そんな笑顔を見ると、胸がいつもキュンとなる。なんて乙女な大人女子。

「ありがとう」

受け取ったコンビニの袋には、2個のハーゲンダッツ・バニラが入ってる。

気配に気付いて、ティアがゆっくりと近寄って来た。細長いシッポをピンと立ててる。ティアは首を傾げるようにして、彼の足に頭を擦りつけた。愛しい人への、ニャンコのあいさつ。

「ティア、今日も美人だな」

そう言って目を細め、指先でティアの頭を撫でる。そんなとき、本当は私に会いに来てるんじゃなく、彼はティアに会いに来てるんじゃないかと疑ってしまう。

※この小説の続きは、Kindle版 ¥200(税込)にて、お楽しみください。

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